自分にとって1つ目のコミュニティーは保育園でした。落ち着きがなく、ヤンチャな側面もあり親には多動症ではないかと心配され病院に連れて行かれるほどでした。しかし異常はありませんでした。卒園文集に書いていた欲しいものは周りがウルトラマンに変身できるもの、行きたい場所はお菓子の国など書いている中、自分が欲しいものは
「カーナビに後ろが映る車」
行きたい場所はドイツとても現実的な子どもだったのでしょう。今見ても面白い子だなとおもいます。
そして2つ目のコミュニティーである小学校へ。比較的なんでも人より少し上手にこなせて成績も悪くなかった自分は小学校で
イジメられる
イジメられていた原因はさだかではないものの自分と話すとあの人から怒られるから話せない、遊べない。そんな時代もありました。そんな時なにかと自分で解決したがりだったので親に何かしようかと言われても「口を出さないでくれ」と言って乗り越えてきました。そういったことを言われていた当時から嫌だな、悲しいなとマイナスに考えていたことは少なかったように思います。
小学校当時はいろいろなことに手を出していました。ピアノ、習字、バスケットボールチーム、剣道、マラソン。その中でも中学校まで続いていたのはピアノでした。確かに音楽に興味があったので、自分で音楽が奏でられるピアノは楽しかったと思います。習字は小学校で続けていたものの、極めるということはなく今でも字は下手なまま。バスケットボールのチームではメンバーに馴染めず極めることはありませんでした。剣道もやってみたものの興味がわかず仮病を使い休むことが多くなり挫折。唯一続いて結果も出せていてのは
マラソン
毎週いろんなマラソン大会に出場し、好成績を収めてきました。良い成績を収められていたからこそ続けられたのだと今でも思います。
そして3つ目のコミュニティーは中学。小学生の頃からのクセで周りに合わせる性格はそのままで誰もが従ってしまうリーダー的存在に自分も従っていました。何も考えず周りが従うから従う。こうしてコミュニティーの常識に従っていました。何か理不尽なことをしろと指示されるわけではなかったのですがみんなが同じことをするから同じ方向を向いて生活をしていました。その影響もありみんなの入る野球部に。上達はするもののレギュラーメンバーになるほどではなくだらだらとする結果に。しかしある日の些細なきっかけを境目にそのグループのリーダーと
対立し孤立
一匹狼となってしまいました。そのリーダーが野球部であったこともあり部活内でも空気は重くなっていきました。しかし一人っ子だったためか友達がいないと寂くなんとか一人の友達を見つけて仲良くなり、その友達とずっと一緒にいるようになりました。
そんなこんなで中学も半ばを過ぎようとしていた頃、自分にふとこんな気持ちが湧いてきました。
「都会に行きたい」
小学、中学時代を田舎で過ごしてきた自分はこのまま地元の高校に行ってもいいのかという疑問を持ち始めました。そして「自分を試す」都会への進学を意識するようになりました。もしかすると自分を試したいという表現よりも「現状から逃げたい」と思っていたのかもしれません。しかし田舎から出るということはそう簡単なことではありませんでした。中学から他の県の高校に行く前例はほとんどない中で、学校の教員、親、はたまた祖父母までもすぐには受け入れてはくれませんでした。
「俺は一人になっても都会の高校に行く」
こう親に説得して少しずつその方面に進み始めました。そして中学3年生になりその時父親が都会で単身赴任をしていたため、金曜日の授業が終わると電車で3時間かけて父親の住む家に行き土日に都会の塾に通い始めました。
ここで4つ目のコミュニティーである大手予備校へ。そこでは田舎の中学では見たこともないような勉強が山ほどありました。さらに勉強に対する意識が高い学生があちこちにたくさんいました。そしてそこで受けた模試で愕然とすることに。
こんな低い順位
中学校ではそこそこ上位の成績をとっていたつもりになっていた自分は初めて自分が狭い世界にいたのだと実感させられました。そんなある日都会の高校の説明会に行った時こんなことをいわれました。「田舎の方から出てこられてこちらの高校に入学するのは難しいですよ」この高校が進学校であったということもありそんなことをいわれました。このままではどこの高校を受験してもダメになってしまうかも知れないと勉強を重ね、無事高校の合格を勝ち取ることができました。
高校に入学し5つ目のコミュニティーへ。1学年は300人以上、全校生徒はおよそ1000人にのぼる学校で田舎にはない人数を目にすることになりました。今まで体感したことのない空気で自分の中に新しい風が吹いてきました。小学、中学ではスクールバス通学で学校と家の直通が当たり前で寄り道することもなくなかったのですが、都会に出て電車通学での通勤ラッシュ、学校の規模、大きなビル、全てが新鮮でいきいきとしていました。そんな中、これまでどこで身につけたかわからない自分の物怖じしない性格のおかげで友達がすぐにでき、すぐになじむことができました。そしてクラスの中では今でもつながりのある友人を見つけて仲良くなりました。学校帰りの寄り道、休日の遊び方、大きく変化した環境で自分なりに多くのことを吸収しました。
学習面では学年の順位はそこそこの上位をキープしていました。しかし将来ネックになってしまう英語がありました。中学の頃は大手予備校とは別に某英会話塾に通っていたこともあり、英語のテストは毎回100点でした。しかしながら高校で少しずつ英語が嫌いになり、できなくなっていきました。これが後々大きく響いてくるとはこの時わかっていませんでした。
そして6つ目のコミュニティーは高校の部活です。ここでも昔からの流されやすい性格で友人が勧めてきたハンドボール部に入部することになりました。野球をやっていたこともあり肩には自信があったものの、中学から継続してきた人たちには勝てないと悟りここでも極めることはありませんでした。それどころか部活の顧問との対立が生じ退部の危機に追い込まれました。部活の顧問は「理不尽」「怖い」など多くの人が言っていました。諦めてしまえば部活をやめてこんな状況から楽になれると考えることもありました。しかし自分がこの状況の打開をゆだねたのは
対話
何度も何度も追い返され、罵倒されることも何度もありました。しかし最終的には顧問と和解し部活に復帰できました。
さて高校も3年になり考えるべきは進路のことに。自分は文系ではないなと思っていたので自然に理系の道へと進んでいましたが、いざどこの大学に進もうかと考えたとき迷いました。両親が医療関係であったこともあり医療界に行く道も考えていましたがここで
反抗
進学校であったこともあり周りと同じ国立工学部に進むと言い出しました。今思えばここでも周りに流されてしまっていたのかもしれません。
さて受験も近づいた秋、ふと自分は機械を相手に仕事ができるだろうかと思いました。工学部の知識がほとんどなかったものの、相手にするのは機械だという常識でこんな発想に至りました。そこで思ったことは
「人間相手の仕事がしたい」
そして選んだ学部は看護学科。両親の影響でなじみ深い仕事ではあったものの本当に大丈夫かという気持ちは大きかったと思います。
そんなこともあり看護学部へ入学。そしてコミュニティーは7つ目へと進みます。当然学部の中には女の人が多い状況で肩身の狭い思いはありました。しかし他学部との合同授業もあったので男の友達も多くできました。一年間大学生として順風満帆に過ごしてきました。そして大学1年が終わり母親と話していたときのことでした。
「このままでいいの?」
母親としても自分の将来が心配だったのだと思います。まだまだ男が少ない看護の業界の中でやっていけるのかと。自分もこのように言われて初めて自分の将来をもう少し真剣に考えようと思いました。出した結果は医学部に行きたい。その日のうちにその決断をし、浪人することを決定しました。この決断が自分の人生をこの後大きく変えることになるとは思ってもいませんでした。
そして8つ目のコミュニティーは某大手予備校でした。医学部に入るための勉強を始めたものの1年大学に通ったことで高校時代の知識は大幅に削られていました。そしてだらだらとしてしまった結果一年目は合格とは程遠い結果となりました。そしてこのまま浪人を続けることに。そして浪人2年目。9つのコミュニティーでは寮に入って勉強することに。周囲には意識の高い学生も多くいましたがもちろん浪人というのは正直まじめにやっている学生だけではありませんでした。中途半端に大学で遊ぶことも身につけてしまっていたため勉強に身が入りませんでした。もちろん結果は不合格。
これでは本当にダメだと心機一転大きく土地を変え浪人を継続することに。浪人3年目にして少しずづ本気になり始めた自分がいました。コミュニティーは10個目。メンバーが新しくなることには慣れていたのでスムーズに溶け込むことができていました。しかしここでネックになっていたのは英語。いくつか合格はもらっていたものの最終合格までたどり着くことはありませんでした。そしてもう一回浪人することに。同じ場所での浪人だったのでコミュニティー的にはほぼ変わることはありませんでした。そしてそして結果は4年間の中で最高の出来でした。しかしながらその後最終的な合格通知を受け取ることはできませんでした。自分はこの浪人で考えたことがあります。それは
「本当に自分がやりたいことは何か」
実際医学部に入るということは研究の分野もありますが最終的には医者になるということです。自分は本気で医者になりたいと思っていなかったのだと感じます。そして医学部に合格しなかったことは今一度自分自身を見つめなおせという啓示だったのかもしれません。
浪人を終え、現在は別の大学に通いながら医学部進学を考えている人たちに勉強を教えていますが、医者になりたいという気持ちが強くない人は医者にはなれません。逆に医者になりたいという気持ちが強い人はその道に進む勢いも違います。そのため終わってみると合格を勝ち取ってきます。
昔から様々な習い事、部活、浪人と多くの経験をしてきました。しかしながら今思えば継続できていることは自分の気持ちが本気でないと続かない、結果を出せないということを学びました。まさに失敗から得られたことだと思います。
さてコミュニティーは11個目の大学へ。紆余曲折を経て現在は大学生として日々研鑽を積んでいます。今までの人生経験から自分の将来を本気で考えるようになりました。自分は何をしたいのか、何になりたのか、どう生きていきたいのか。まだまだ先は見えないかもしれません。しかしこの常識学を考えるようになった経緯は
受動的な人生を送らないという自分の意思表示
自分の中に隠れて無意識に周りに従ってしまう常識にスポットライトを当てもう一度考え直し自分の考え(アイデア)を見つける。これこそが常識学の原点となっているところです。